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老子絶対服従の摂理 [随筆]

【老子絶対服従の摂理】

老子には徐甲という下男がいた。
若いころから雇っていたが、なにせ仙人というのは金銭とはあまり縁がないものであるから、長年の間給料が未払いであった。そこで徐甲は二百余年分の給料の督促状をつくり、伊喜に申し入れた。驚いた伊喜は、徐甲を老子に面会させることにした。
老子は徐甲に詰問した。「私はおまえにいったはずだ。目的地についたら給料を勘定して黄金で支払ってやると。なぜそれをおまえは待ちきれないのだ。すぐには支払えないこそ、そのかわりに、私はおまえに大玄清生符を与えたのだ。そのおかげで今まで生きてこれたのではないか」そういって徐甲の口を地面に向かって開かせると、口からたちまち大玄清生符が飛び出てきた。その朱で記された霊符はあたかも今書いたかのように鮮やかだった。と同時に、徐甲はひとかたまりの骸骨になってしまった。 

伊喜は、老子が神人であるならば、徐甲を生き返らすこともできるだろうと考えた。そして徐甲のために頭を叩いて助命を願った。老子が再び太玄清生符を投げると、徐甲は即座に生き返ったという。伊喜は老子に代わって二百余年分の給金を徐甲に払い、そうして老子に対して弟子の礼をとった。そのときに老子が口述した5000言を伊喜が筆記したものが[老子道徳経]であるという。 ーー了。

『反動転運法』

反動転運法とは、運、ツキの流れに便乗することである。ゴルフの今売り出し中の稲見が勝つと巨人は勝てなかった。稲見は巨人ファン東京出身なんだろう。石川遼もそうだったな。わしがプロ野球は禁止だと宣言したわけだが、これに全く従う気がない朝日読売八百長共犯者は、阪神タイガースをタテにプロ野球を盛り上げさせ、牽引させようと企んだわけよ。だから阪神は実力で勝っている状態ではないということだ。なぜか勝っている、勝たせられていると見るべきやな。マスコミがやたら阪神ネタに頼っているのは実にみっともない。

❨電池を食うアプリ❩メディア支配下のコンテンツである阪神タイガースは大阪、兵庫、関西の柱として存在を誇示している感があるが、哀しいかな巨人専属の娼婦のようなもんやろ。八百長だしな。そのうえメディアは阪神が勝たないよういろいろ画策してくる例えば地元出身ゆかりの勝負関連の者を活躍させ阪神の運を減殺させてしまう。超絶囲碁天才・井山裕太、テニス大坂なおみ等もりだくさんだ。これらはまさに阪神にしてみれは電池を食うアプリなのである。


【メディア支配下コンテンツ】

所詮、阪神タイガースプロ野球はメディア支配下コンテンツでしかないからな。そもそも読売八百長野球を相手してやってる専属娼婦にしか見えん。昔わしは、わしの卓越した能力?で常勝読売ジャイアンツの優勝を阻んできたものよ。ブログとか、ホームページの無い時代だった。だが、さすがのわしも調子に乗ってしまい、インターネットが出てきてブログでわしの強大な影響力を世間に教えてしまった。それはさらに強固なものにする為であった。期待に反して裏目が出た。わしに付いて大いに盛り上がると思いきや誰も動かなかったのじゃ。石田三成が小早川にやれ!と命令しても小早川はダンマリして石田にショックを与えたのと同じ気もちやった。確かに雉も鳴かずば撃たれまい、だ。わしが愚かだったのだ。くだらぬプロ野球に嵌められた自分が悔しすぎる。じゃ、よろしゅう。

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南北朝日本 [随筆]

【南北朝日本】

建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が京都で新たに光明天皇(北朝・持明院統)を擁立したのに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野行宮に遷ったユリウス暦1337年1月23日(延元元年/建武3年12月21日)[2][注釈 1]、終期は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一したユリウス暦1392年11月19日(元中9年/明徳3年閏10月5日)である[2]。始期を建武の新政の始まりである1333年とする場合もある。
☆50年以上にわたる南北朝の争いは、途中南朝が優勢に立って北朝を一時解体に追い込んだこと(正平一統)もあったものの、北朝を擁立した足利尊氏が開いた室町幕府が全国の武士を掌握するにつれて北朝側優位の流れが次第に固まりつつあった。ことに第3代将軍・足利義満の時代の1392年には楠木正勝が敗れ河内千早城が陥落するなど南朝を支持する武士団が潰走、南朝は吉野周辺や一部地方に追い込まれ、北朝方優位は決定的なものとなった。

義満は1391年(明徳2年/元中8年)の明徳の乱で有力守護大名の山名氏を弱体化させて武家勢力を統率すると、和泉・紀伊の守護で南朝と領地を接する大内義弘の仲介で南朝との本格的交渉を開始した。そして3か条(前述)を条件に和睦が成立。1392年(明徳3年/元中9年)に後亀山天皇は京都へ赴いて、大覚寺において神器を譲渡し、南朝が解消される形で南北朝合一は成立した。南朝に任官していた公家は一部を除いて北朝への任官は適わず、公家社会から没落したと考えられる。

そもそもこの和約は義満ら室町幕府と南朝方でのみで行われ、北朝方はその内容は知らされず合意を約したものでもなかったようである。そのためか、北朝では「譲国の儀」実施や両統迭立などその内容が明らかとなるとこれに強く反発した。北朝の後小松天皇は南朝の後亀山天皇との会見を拒絶し、平安時代末期に安徳天皇とともに西国に渡った神器が天皇の崩御とともに京都に戻った先例に則って、上卿日野資教(権大納言)・奉行日野資藤(頭左大弁)らを大覚寺に派遣して神器を内裏に遷した(『南山御出次第』『御神楽雑記』)[注釈 1]。元号についても北朝の「明徳」を継続し、2年後に後亀山天皇に太上天皇の尊号を奉る時も、朝廷では足利義満が後小松天皇や公家たちの反対意見を押し切る形で漸く実現した。さらに国衙領についても、建武の新政以来知行国を制限して国衙領をなるべく国家に帰属させようとしてきた南朝と、知行国として皇族や公家たちに与えて国衙領の実質私有化を認めてきた北朝とが対立し、南朝方が北朝側の領主権力を排除して実際に保有出来た国衙領はわずかであったと見られている[2]。

なおも北朝方は、1412年(応永19年)に後小松天皇が嫡子の称光天皇に譲位して両統迭立は反故にされた。称光天皇には嗣子がなく、1428年(正長元年)の崩御によって持明院統の嫡流は断絶したにもかかわらず、後小松上皇は伏見宮家から猶子を迎え後花園天皇を立てて再び約束を反故にした。反発した南朝の後胤や遺臣らは、朝廷や幕府に対する反抗を15世紀後期まで続けた。これを後南朝という。

◇北朝側の約束破りは邪道の誹りを免れない。明治維新政府は南朝を皇統正統を承認したが、神界がそうなのだから私は南朝派民皇といえる。徳川将軍とかは、北朝足利将軍系統であり、徳川幕府の高遇された佐竹も北朝派であろう。対して、織田信長、豊臣秀吉、西郷隆盛等は南朝派と見なしても良いだろう。ー以上。


ちなみに後醍醐天皇は怨霊界を卒業されて、神界にご帰還されたということで誠におめでたい。
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